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タリバンがバーミアンの立像を壊してしまった。 
 タリバンはバーミアンの立像を壊してしまった。 
取り返しのつかない事をしたとはこの事だろう。 
 パルテノンに続いて又やった。


 我々の世代はどう見ても頭が悪いらしい。 
この一個の頭が本当に数少ない人類の面白い遺産を、
粉々にしてしまった。
 あのソビエトがアフガニスタンに侵攻した時でさえ、
手を付けなかったと云うのに。
 何を根拠に近代・現代人と云えよう。 


 せっかく21個目の頭から、新しい進化の門出と見ていたのに、まだ未進化のままのスタートを見せつけてくれた。
 だから云うのだ、我々は野蛮で下等で未完成、いびつな形で歩んでいるのだと。 


 何の為に・・・ 偶像崇拝を嫌ったのなら既に顔は壊され破壊されていたではないか。 
 違う宗教のシンボルだと云うならタリバンの家の壁に、胸のポケットにある写真はどうなるのだ。
 写真を見て想う気持ち、この気持ちは立像を作った人々も同じ気持ちなのが理解できないのか。 
それが何であれ、宗教に自由は無いのか。


 互いに違うシンボルを認め合う事は出来ないのか。
 互いに形の有る物、無い物、信心してる対象は信仰している人にとってとても大切な存在。
 そこに破壊と殺戮を伴って侵入するなら、
もはや侵入者は信仰による夜盗の群れに他ならない。


 壊した人は何も知らない人。
 字が読めない書けない人。
 絵も描いた事が無い。
 歌も歌えない恥の恥を知らない人。
 知っている事は爆薬の匂い・扱いを知っている人。
 吹き飛び散り、崩れ落ちる様子を見たくて仕方ない人。


 日本からもかなり力を入れて説得に当たったらしい。
 このタイプの人には実利を持った話をすれば効果的かも知れなかった。
 このバーミアンの場所が落ち着けば、エジプトのピラミッド・ギリシャのパルテノンと等しく、計り知れない莫大な富をもたらしてくれますよと・・・


 バーミアンの立像がタリバンの手で破壊に晒されていると、短波ラジオから流れてきた。 その間ハラハラする想いでいたが、わずか二週間ほどで消失してしまった。
 現地のニューステレビを視ていたら、いきなり無き物になっていた。 
 やりきれない。


 昔、インドで仏教を信じる人が、様々な立像を作って西に向かった。
 一方、ギリシャから目も覚める具象の彫刻が東に渡って来た。 そして流れはバーミアンでぶつかった、ガンダーラ。 それは面白ーい人の目が創り出す、造形の営みの交流だった。 重なり合い混ざり合い新しい物を創ろうと創念の想いに浸った。 


 目の前には大きな岩板が横たわっている。 そこに強力な指導者が現れ命じた。
 あの岩板をくり抜いて創れ! と号令を発した。 
 そして出来上がったのがバーミアン遺跡。 


 あの立像はノミを持つ職人の発想には思えない。 
 職人の経験では、とても思い追い付かない程の大きな大きな巨像。
 長い時間、時を経て創られ、
たった一つの面白い立像造形。 消えてしまった。 




 いつ頃だったか、竹島と尖閣諸島の領土問題で、
日本政府が煮え切れない態度を取り続けていた頃。
イカダ組はこんな事を話していた。 
 北朝鮮のミサイルが暴発して、
東京湾にでも落っこちたら、
少しは目が覚めるかもしれないなーと語っていた。 
 そしてしばらく、しばらーくしたら実際に列島を飛び越えて三陸沖に飛んで来た。





 こんな事も含めて東アジアの一員として眺めて見ると、
多少肌の色変って来たりするが同じ様な顔をしている。
同じ様な物を食べている。 
 音楽では同じ様なポップスが流れてくる。


 同じアジアでも中国・ラオス・カンボジア・タイ・ミャンマーと見て歩き、一歩インドに入ると全然違う。
 人が変ってしまう。
 そこにいる人種も宗教も違うのだから、当然と云えば当然だが、
地続きであるにもかかわらず、一本の境界線を越えたとたん、こんなに人が違うものかとビックリする。


 このインド人と日本人。
あまりに違った環境で育ったせいか、かえって旨く馴染み交流している人達をよく見る。
 それは人として、互いに何処か認め合っている節が感じられなくもない。


 彼等は、ナニ人かと聞いてくるが、
日本人とわかると気が緩む様だ。 
それは他の外国人が、
マシュマロを見つめる様な軽々しさを越えて、
人として違う所で違う物を見つめ合った民族として、接し合っている気がしてならない。


 30年も前インドに行った時は、年配のインド人はそれこそ諸手を上げて迎かえ入れてくれた。 それは過去の日本人の取った行動をよく見ていた人達であったのであろう。
 だからインドはとても居心地が良かった。 


 インド映画を観ていると、なるほど面白い見方をしているなと感心する。
 メロドラマ・アクション・神話、何れのジャンルに於いても感極まってくると、観ている観客の心情に合わせて歌と踊りが挿入される。


 ストーリーの進行と同時に、お客様の気持ちの高ぶりも一緒に表現して話しは進む。 だからメロドラマで太めの男優・女優が最後に結ばれるとなると、
踊りは乱舞となりHAPPYーENDとなる。 


 勝新太郎の座頭市シリーズ、インドで大当りしたそうだ。 勝新太郎の容貌、少し太りぎみだし美男に属するのかもしれぬ。
 あの映画インド人に任せて歌と踊りを入れて再編集させたら面白くなるんじゃないか。


 仏教の発祥の地はインドなのだが信仰の普及率となると人口の1%なんだそうな。 この人達の気質を見てると、仏教の世界は物足らないのかもしれない。
 街を歩いていると、至る所でヒンズー教の世界が散らばっている。


 鼻の長い象の顔をした人体の石像。
 ハヌマンと云って猿の顔をした石像。
 虎やライオン・コブラに囲まれた目のパッチリしたお姫様。 全てその世界はファンタジーに見える。


 その世界を子供の頃から身近に親しんで大人に成っていく。
 インド人に接していると彼等の顔は日常の仕草・行動が、何処か浮いている様に見えてファンタジーの世界に包まれている様に見える。
 つまり神話の世界をずーっと続けているのだ。


 このインド、遠くはアレクサンダーが攻め込んだが、
北西部を遠征して帰ってしまった。 
接する中国も入って来なかった。
 ユーラシア大陸をほぼ手中に納めた大モンゴルも、イスラム圏のアフガニスタン迄触手を延ばしたがインド迄入って来なかった。 


 ところが近代に入ってあっさりとイギリスの侵入を許してしまった。
 バスコ・ダ・ガマから始まって植民地時代の帝国主義のアラシは、それまでの単純な暴力による領土没収と違って奸計・奸策に満ち溢れ、真綿の紐で締められた結果であったのだろう。
 それはアレキサンダー大王より強力だったと云う事か。


 20年前、若い白人男性とインド女性がつかみ合いの喧嘩をしているのを偶然見かけた。
 若い女性は白人男性の髪の毛を両手でガッチリつかみ取っていたが、白人は女性の腹の上に馬乗りになっていた。 それを見たインド男性、誰ともなく寄って来て争う二人の周りを囲むと一斉に力を込めて白人男性を蹴り始めた。
 インド人の心の奥底を知る思いをした。 




 中学・高校の頃、映画を見に行くと、本編の映画が始まる前に15分程国際情勢を映したニュース映画が必ずあった。
ムービートンニュース、パラマウントニュース、解説は竹脇無我のお父さん竹脇昌作氏が担当するのだが、あの語りも忘れられない。


 100%日本語なのだが英語風に聞こえ響いて来るのだ。 今想うと単純に鼻が悪かったのではないかと思われるが、とにかく外国ニュース解説にピッタリはまった名人だった。


 そのニュースの中で必ずといっていい程、インドのネルーが顔を出していた。 
 その頃インドは貧しく国際貢献出来る事はなかったろうに、インド人としてのネルーは、ガンジーと並んで実に存在感が大きかった。


 その頃ハリウッドに打って出た、ヂェフ・チャンドラーと云うアクション映画俳優がいたが、ネルー程の存在感は無かった。 むしろマーロン・ブランドの奥さんになったアンナ・カシフィックの方が大きかった。


 ユーラシア大陸をほぼ制覇した大モンゴル帝国。 
 この国が攻め切れなかった国は日本とインド。 
 この日本に大陸の旅人が何故やって来なかったのだろう。 マルコポーロも旅人の一人。 その彼も日本の噂だけ聞いて帰ってしまった。


 この当時中央アジアを中心にユーラシア大陸を仕切っていたモンゴル帝国は、絶大な勢力を背景に大陸の隅々迄治安が行き届いていたらしい。 こうなると旅人は動き出す。


 旅人の性癖は未知なる地・人・文化には貪欲で必ず足を伸ばす。 それに好奇心も手伝って、地理上の先端・突端・僻地といった言わば端から端を制覇したくなるのも、旅人の業なのかも知れない。


 従って目の青い旅人は大陸の果て日本を目指して、当時の大モンゴル帝国の首都大都(今の北京)に集まっていたのも当然の事だろう。 そこで聞くジパングの噂は黄金の国、金・銀で出来た寺(金閣・銀閣)。
 金が満ち溢れている事を、恐らくまことしやかに聞かされた事だろう。 旅人はじっと我慢していられなかった筈だ。


 ところが渡って来ないし、裏日本の何処かがツーリストの溜まり場だった事も聞かない。 
 少しずれるが長崎の平戸・出島、あのようなメジャーな所は鼻も引っかけない。 


 旅人は未開拓な所に新しいルートが出来ると、最初に集まって来るのはだいたい同じ様な顔つきで体はおおむね頑丈、風体も似ている。 そんな彼等が泊まる宿は必ず決まっていて、5年もすると1軒だった宿が5〜6軒になり10年もすると現地の人がおっぱられてその区画全部が旅人・やじうま旅行者に占拠されてしまう。 


 カルカッタのサダルストリート、ゴアのカラングート、マニカラン、ハンピ、バンコックのカオサン、パンガン島、皆そうだ。 
 そんな所を日本の文献・記録で見た事もない。 
強いてあげれば出雲になるが、あの地に行って見ると確かに風光明美。 島と陸地が入り組んでいて朝日夕日があたると輝く所だ。


 旅人にとって景色の良い所は求める地の条件だし叶っている。 しかし、あの地は朝鮮半島・中国からの渡来人が多かった事は記録に残っている。 ここで述べている事は、青い目の渡来人が何処に来たかを考え推理している。 


 コロンブスもそうだ。
 彼は地球は丸いと信じて大西洋を西回りで突っ切って、たどり着いたのがバハマ諸島。 そこを亜細亜の果てと信じジパング、ジパングと探し周ったオメデタイ男。
 彼は最初に漂流した地を死ぬまでインドとした為、その周りを西インド諸島と名づけられたがこの名前のいわれは信じがたい。 


 だいいちインドは知ってのとおり三角形の大陸、諸島と名づけるのはおかしい。
 インド領アンダマン諸島はあるが、あれは地理的にタイ領に近く、とてもインドを探すべく諸島をさまよったとするのは変だ。 


 彼が西回りでスペインのバルセロナを出船した頃、大陸の果てはインドだなんてツユほどにも思っていない。
 彼が出かける約100年も前にマルコポーロがしたためた東方見聞録を、パトロンであるイサベル女王が知らぬはずがない。 にもかかわらず西インド諸島と触れ回ったのは、イサベルがジパング一番乗りをしたかったに他ならない。


 その為、ポルトガル・イタリア・イギリス・オランダに対し、煙幕・アドバルーンを上げたのだ。
 従って、カリブ海に浮かぶ西インド諸島は. ジパング諸島と記されるべき性格だった。


 さかのぼればアレクサンダーが東に進路を伸ばしたのも、大陸の果てを見たかったのであろう。 だがインドに入って余りの人種の違いに嫌気がさして、西に引き返したのかも知れない。
 彼のインドでの足取りをみると、東西南北地図上にミミズがのた打ち回った如く、行路が交差している。


 インドの先は海と聞いていたのに、行っても行っても延々と陸地が続き疲れ果て、この嘘つきーと帰ってしまった。
 以後、その他メジャーでない沢山の旅人が、長い時を経て馬に乗りラクダに乗り、東の果てを目指した事は想像に叶う。 だが来なかった。


 この状況は、確率二分の命を掛けて、渡って行くのは嫌だと云う事ではないのか。
 舟がチャチで向かった舟が半分以上沈没するとなると、旅人は二の足を踏む。 旅人は普通の人、一般の人に比べて向こう見ずかも知れない、それだけその反面、用心深くもある。


 日本に太古の昔から渡来人がやって来たと云うが本当だろうか。
 奈良の都は一時、日本人より渡来人の方が多かったと聞いた事がある、どうもまともには受け取れない。


 日本海の荒海をそうたやすく渡ってこれるだろうか。
その上、旅人と違って勇気で劣る普通の一般人。
行きが3割、帰りが3割の渡航率となると100人行って何人帰ってこれるのだろう。 危ない事はしないと云う事が昔からの人の定説だ。


 それでも太古の太古の昔、命を掛けて日本に渡って来た人は日本がそれだけ面白く魅力があった証拠と云える。 それは -女王卑弥呼の宴- が忘れられない感動を秘めていたのだろう。
 青い目の旅人は、大勢の軍船・軍団、大モンゴル帝国フビライの日本襲撃を固唾を飲んで見守っていた。
結果によっては、すぐ日本に行こうとする旅人の群れである。


 フビライハーンが日本攻めに要する軍隊兵隊は15万人。
100人乗り・200人乗りの軍船で大小3千隻の船が用意された。 
 兵隊は海を挟んで補給が利かないのだから、この程度の数は必要だろう。 船は兵隊のほかに軍馬・食料・武器も乗せるのだから、この船舶数は要したと思われる。 軍馬は奇異に思うかも知れないが草原の民として馬は武器とみる。


 この軍団を小高い丘に張られた黄色い陣幕の中から見送ったのは、フビライハーンと2000人の旅人、彼等の出身地はイスラム・ヨーロッパ圏の寄合だった。
 彼等は当然この兵員・船団を目の前に見て、まず負ける事はないとこう想いつつ手を振った。 とりあえずフビライハーンに日本行きの安全な航路を作ってもらい、確認してから渡航しようと旅人は皆思っていた。


 ところがこの当時アメダス情報などないから日本海で台風に遭遇し悪戦苦闘の中で戦っている等想像すらしてない。 実際、日本に上陸した所で日本の武士にいいように切り込まれた事だろう。 


 こうしてモンゴル軍は奮闘努力の甲斐もなく帰って来た。 出迎えた2000人の旅人は、信じられない光景を目にした。 帆は破れ、マストは折れ、船は穴を開けられ沈没寸前。 中には兵員が手漕ぎしながら漂着した船もあった。


 武将の顔は皆疲労困憊やつれていた。
 結局、帰還出来た船隻は1割にも満たない100隻足らず、兵員は千人弱、要するにコテンパンの目に合ったのである。 武将は戦況を述べるに風・雨・台風にやられたと、でも旅人は信用しなかった。


 旅人は震え上がってしまった。 日本に行くどころの騒ぎではない。 日本恐るべしとさっさと本国に帰ってしまった。
 これを見たフビライハーン、大帝国の面子丸つぶれ憎っくきジパングと再び軍備を整え攻めて来たが又、同じ憂き目にあった。 大モンゴル帝国の衰退はこの頃から風と共に去り始めたのである。 


 一方、
ポルトガル・スペイン・イングランド・フランスは旅人がもたらした情報をもとにジパングに一目置かざるを得なかった。 
 この対モンゴル2回戦はヨーロッパ・イスラムから見ると世界大戦と映っていたのである。 その驚き足るや先の日露戦争での世界へ与えた衝撃など比較出来ない程のショックをバラマイタのである。


 後の15〜16世紀に始まった大航海時代。
 ジパングに近寄らなかったのは、この情報がもたらした結果と云えそうだ。
 更に、19世紀にヨーロッパ列強がアジアに植民地分取合戦に押しかけて来た時も、日本に近寄りがたかった遠因はここにある。


 もう一つ、
時を経てポルトガルがキリスト教布教の為、ジパングに派遣したフランシスコ・ザビエル。 
 布教は表向きで裏ではジパング攻略のスパイだったのではないか? 
 ジパングでの彼の足取りと、ポルトガル・スペインの裏面史を継ぎ合わせれば答えが出て来そうだ。


 もう一人三浦按針、彼もくさい。
日本には金銀があふれんばかりに眠っているとの情報を得たヨーロッパ。 
 金銀をこよなく愛する白人、
彼らが黙って見過ごすとは思われない。


 実際15〜6世紀に中米南米に出かけインカ・マヤの遺跡を粉々にしてまで金にこだわった。
 メキシコのティオティワカン・ペルーのクスコ等行ってみると、よくぞここまで壊せるものだと呆れてしまう。 


 その彼が日本にて徳川家康の外交顧問として厚遇されていた時、イギリスから商船だったか使節船が来たそうだ。
 アダムスはその機に帰国を強く要望したらしいが許されなかったらしい。 当然だろうイギリス本国は日本語をマスターしている彼にとって代わるスタッフがいなかったのだ。


 かの有名なオランダ商館のシーボルト、
彼の医者の衣をまとった業績は云わずと知れたことに他ならない。
 いずれにしても彼らのもたらすジパングの情報は、ヨーロッパに対モンゴル2回戦、裏付ける確証として役だったと云えるだろう。


 この頃から日本から見る日本と世界から見るジパングは見解が大きく開いていて、広島・長崎に至るまで開きっぱなしだったんだ。
 徳川300年、
世界に類例の無い安泰が続いたのも、ここに幸アーリ♪ と云えそうだ。


 スペインのフェリペ二世、
 彼の描く世界地図の中にジパングは、殊更大きな島国と映っていた。 そうであろう彼等にとってモンゴル帝国は、ヨーロッパを恐怖のどん底に突き落とした大帝国である。
 その存在を最東端のジパングが2度とも打ち返してしまったのである。 彼にこの史実を忘れることは出来なかった。


 このあたりの日本人、日本人たる日本人と云って差し支えないだろう。 
 何故ならこの当時モンゴル帝国の圧倒的な強さ・大きさを知った上での戦いで、一切の和睦等を寄せつけず敢然と戦いを挑み身構えた。 


 それは虎と日本犬の戦いに等しい。
 その虎の強さたるや・・・・・・ 
ヨーロッパの最前線、東欧あたりに攻め込んだアッチラ大王率いるモンゴル軍の姿を映画で観た。
 主演ジャック・パランス。
 上映、有楽座。 
 一級のスクリーン、シネマスコープ。
 一級の立体音響設備。 総天然色。 冷暖房完備
餓鬼の頃の私は胸をわくわくさせながら赤い座席の片隅に座っていた。 


 重そうな分厚い赤い緞帳が音もなく持ち上がるとプールみたいな白いスクリーンが現れ、20世紀フォックスの(だったと思う)夜空を照らすサーチライト5〜6本うごめいて、それにふさわしい音楽が被さる。


 最初太鼓の音がスタンスタンと決まり、次に管楽器
 ♪ パンパカパーンーーーパッパッパッパーーータララリーーータララリーー
   ララーーラララ ♪   ゆっくり黒い夜空にフェイドアウト。
 やがてタイトル、アッチラ大王が浮かぶ。 


 さあ映画を楽しんで頂戴と云わんばかりの幕開け、このへんの作りアメリカ映画に一目置いちゃう。 
 そしてジャック・パランスのアルファベットがでっかく映る。


 7〜8年前、彼の出演した作を久しぶりに観た。
 ‘バグダットカフェ’  びっくりした・・・
 初老の画家の役で物わかりの良い人を演じていたが、それなりに渋い味を出していた。


 新境地と言っていい、本来の彼の味は冷酷・冷徹・チンピラ・インデアン・用心棒・殺し屋・ギャング映画・西部劇・戦争兵士等で薄笑いを浮かべ、喋り、殺す。
 死んじゃう時は断末魔の顔と声を出す、これもいい。


 これが彼の本領なのであってアッチラ大王は彼の持ち味からしたら邪道の部類に属する。 だからのせいにもしたくないのだがストーリーは余り憶えていないでも最後はよく憶えている。


 モンゴル草原を大軍を率いてやって来たアッチラ大王は、ロシアを破り戦闘につぐ戦闘でヨーロッパに入った。 東欧を過ぎたあたりで急に十字架が出てきて宗教映画みたいになってしまう。


 雨の降る夜、猛烈な稲妻をバックにアッチラ大王が泣きながら子供を抱いてやってくる。 
「子供が死んじゃった! 子供が死んじゃった!」 
とジャック・パランスが吠えまくる。
 そこに宗教家が現れて、
「これは神の天罰です、これ以上西に進軍するのは辞めなさい!」
とか云われてあっさり全軍引き上げて終り。


     
ドコガトラミタイニツヨインダ!!    


だから戦闘につぐ戦闘シーンでの奴のつらがまえは、誰にも負けないオッカナイ顔だったと云うの! 


          
               ナクコモダマル、トイウワケ?


お前、洒落ともつかんイヤミを云っているのだな?
そら俺も戦闘に明け暮れる中で、いきなり赤ん坊だから変だと想ったサ。


しかし推理するにだよ、あのアッチラ大王の勢いなら、フランス・ドイツ・イタリアを蹂躙し、ピレネー山脈を越えて大西洋をのぞむ事は、わけなかった。
だがそこまで進軍するとアッチラはイスラムの力、イスラムはあなどれないと知っていたから危険だと判断したんだ。


もし攻め込まれたら前は大西洋の海、後ろはピレネー山脈。 袋小路に追い込まれると全滅と、こう読んだんだ。 だからあの場で十字架、赤ん坊で泣く泣く帰るのも、大王の顔が立つとこう云う訳なの。


だけどジャック・パランスが泣くなんて信じられないよ。 不敵な笑いで帰ってもらいたかった。
     サーーミンナー! 行くぞーー  
     全軍ジパングー どっちだー! アッチラーーッ





 はるばるユーラシア大陸の西に行ったので、先端のポルトガルに行った話をチョイトしよう。
 フランソワーズ・アルヌール この女優は変な女優。 スクリーンに彼女が出てくると変な雰囲気を醸し出す。 変に存在感があるからスクリーンにどんなに小さく映っていても彼女ばかり見ている。 恐らく他の観客もそうだったと思う。


 目つきが常に潤んでいて相手役が後ろを向いてる時でも上を見ている時でも、あの目は常に男のオチンチンを見ているのだ。 きっとそうなんだ。 だから見ている間、男達は皆立ってたと思う。


 その想いを想像すると可笑しいんだが、館内の野郎どもは皆どんなHも受け入れてくれると勝手に思い込んで見ている。 
 総立ちだよ!
                      バーカ、オマエダケダー

 
     
っせ! このやろうー


だから相手役の男は皆、コロッとやられちゃう。 
‘ヘッドライト’のジャン・ギャバン。 ‘大運河’のクリスチャン・マヌカン。 
‘女猫’のロベール・オッセン。


 彼等は彼女と、どんなに離れていても彼女の手が伸びて掴まれているものだから、帰ってくると「ハイ、承知しました」てな顔をする。 女王様なのかも知れぬ。
 だけどクレオパトラとかファビオラの様な役は決してやらないし向いてない。


 彼女と対等に張り合えたのは‘陽気なドンカミロ’のフェルナンデルぐらいだ。 
この映画彼女がデビューして間もない頃で、まだ幼さが残る胸をチラッと見せてくれる。


 彼女のレパートリーの一本‘過去を持つ愛情’
この映画で悪女を演じたフランソワーズ・アルヌールとアマリア・ロドリゲス。 
この二人を慕ってポルトガルのリスボンに行ったのは1985年頃だった。


 映画では彼女なかなかしっとりした味のある演技を見せてくれたが、どうした事か数年前から彼女の名前がとっさに出て来なくなった。 そこでフランソワ−ズ・ヌルヌールとしたらしっかり名前が留まる様になった。


 ファドはアマリア・ロドリゲス。
 日本に何度も来た様だが一度も聞きに行かなかった。
 あの酒場かどっかの階段の横に立つ彼女を、上から撮るショットの白黒フィルムに浸って聞くから味があるのであって、コンサートではチョット・・・・。


 リスボンの街は古い街並で近代的なビル等、殆ど目につかない。 車もそれほど多くなくスクリーン当時のまま路面電車も走っている。 従って結構多感な頃の気分に戻ったりしてリスボンを歩いていた。


 ポルトガルは15世紀に大航海時代の先陣を切った国だが、あの時代の栄光は何処にあるのだろうと、少し真面目になって各ミュージアムや海を見下ろす城跡を見て廻ったが、山の上にある城など徹底的に壊されていて原形を留めない。


 あの時、日本から相当量の金銀が行っている筈だが、その栄華は何処にも見当たらなかった。 恐らくこの城と同じ様に徹底的にスペインに略奪されたのかも知れない。 何だか寂しい想いで名物のイワシのまる焼をパクツイタ。


 そう云えば、あの映画も見終った後も何だか寂しい想いがしたものだ。 相手役の中年男も中堅の仏映画俳優で、顔が半分位出て来るのだが、少し禿げ上がっていて、‘カビリアの夜’ジュリエッタ・マシーナの相手役だったかな? と想いもするが、あれはイタリア映画だし、とにかくアルヌールばかり見ていたからこんな事になるのだ。


 夜、ファドを聴こうと昼間探しておいたロドリゲス専属の店に向かって石畳のゆるい坂道を昇って行くと、
「アラ!」 と、中年の日本人夫婦に又会った。
「私達、ファドを聴きに来たんですのよ。」
「じゃ御一緒しますか。 ロドリゲスの店にしますか?」
と問いかけながら、とりあえず店にエスコートした。


 40半ばの中年夫婦とは、列車でリスボン駅に着いた時、駅のスタンドコーヒーで知り合ったのである。
 ファドの店は小じんまりして30人程で満席、中央前に舞台があってフラメンコの踊りと歌をやっている。 まだ8時頃だからファドはこれからなのだろう。


 中年夫婦は、旦那さんが耳から髭を伸ばしていて、現代音楽をやっていると奥さんが教えてくれた。 演奏者なのか学校の先生なのか批評家なのか、それ以上聞かなかったので知らない。
 私も音楽には興味があるが、武満徹・ジョンケージの名を知るぐらいである。 


 60過ぎの店のオジサンが私達の所にオーダーを取りに来た。 
 全然解らないメニューとにらめっこしてると、御夫婦が、
「ビール2本」 
と指を2本立てている。 
 オジサンがメニューの何処かを指差して何か話しかけてるが、
「ビール2本」 と譲らない。 


 メニューを閉じたオジサンは、迷っている東洋人に同じ様に微笑みながら、私のメニューに指を差す。
 ワイン?と云われてハイ、料理と云われてハイ、訊かれるままにハイハイ答えて、私の云った事と云ったら、“after coffee.” だけ。


「はい、わかりました。」 とオジサンは丁寧な素振りでテーブルを去る。 
「何だかわからないから、YES.YES.云ったけどアルコール類全然ダメなんですよ。 ワインよかったら飲んで下さい。」 と御夫婦に云うと笑って答えてた。


 舞台ではやっとファドのこぶしを効かせた歌を、中年の男と女が代わる代わる歌っている。
 伴奏はギターとアコーディオン、照明はフットライトと狭い舞台の足元から照らしてる。 


 さっきのフラメンコといいファドといい、20代の若い人は出て来ない。 大人の客層だから大人の芸人が出てくるのであって10〜20代は子供扱いされているのかも知れないとも想ったが、もしかして売れている若い美麗な歌手・踊り手は、もっと違うHILLTONやSHELLATONに行っているのかも知れない。


 次の舞台までの間、各テーブルではペチャクチャ・ペチャクチャよく喋る。 
 一見観光客と解るのは我々の他二組ぐらいで彼等も会話を楽しんでいる。 我々も時折、現代音楽の話を混ぜたりして旅の話をしていた。 


 その内何か私が質問したのだ。
 そしたら彼が、
「どの辺から話したらいいのかな? 誰を知っている?」
と訊かれて、ジョンケージとマースカニングハムの絡みを答えた。


 彼は何か考えて黙っている。
間が少し長いので話しを引き継ぐ形で、
「日本の現代音楽家は武満徹ですが、彼は日本のワビ・サビを売り物に音を作って世界で認められてますが、ワビ・サビを何となく身体で理解している我々にとっては、彼の創る音はどーも馴染めない気がするんですが」
と水を向けた。 


答えが無い。
一点を見つめているから言葉を探しているのだろう。
 更に、
「広くとれば、キタローもソウジローも、その部類に入ると思うのですが。」
私は思ってた事と、プロの認識に絡み付こうと思ったし、面白くなると思った。


 彼は答えない。
全く私を見ない、無視している、コマッタ。 
気まずい雰囲気が私達の回りだけ巡っている様だ。
 少し休息。 


 暗い店内だが5m先の舞台は急に明るくなる。 
 綺麗な衣装をまとった芸人・歌手がピカッと大きく見えて箱の中の操り人形に見える。
 舞台に新たな歌手が登場した。 少し若く30位の女性、歌も旨い。 夜も十時過ぎたからこれから上向くのかも知れない。
しかしどーも重い、こんな筈じゃなかった。


 歌の合間に、
「日本の内藤やすこがファド歌ったら、合うかも知れませんね。」
と一掃に向かったのだが、気持ち顔が向いたが沈黙。 どちらからともなく、店を出る事にした。


 オジサンが、明細レシートを持ってテーブルの上に置かれた。
 豆ライトに照らされたレシートを見るや、彼はメニューを見たいとオジサンに告げ持って来させた。 
 それから奥さんがレシートの上に料金を置くと、二人出口に向かって行ってしまった。 


 別に私も構わないと思って、ゆっくりコーヒーを飲み支払いも済ませて、店の外に出たら彼等2人私を待っていてくれた。
「宿は何処ですか?」
「広場に面したホテルです。」
「同じ方向ですね。」


 揃ってゆるい石畳の下りの坂道を歩きはじめた時、チラッと店の横にある赤や紫の点滅するランプに縁どられたショウウィンドウの芸人達の写真。
 真ん中に少し年の重なったロドリゲスの写真が大きく貼ってあった。
 donkadonka donkadoka donkadokadon  クァーーー〜〜ラ


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Make it decided.......................u.f.o