直線上に配置

 たまたま21世紀のはじめにギリシャのアテネに居るのも何か不可思議な気がする。
 自分が子供の頃、世紀と云う言葉の意味を理解した時、
“21世紀迄は生きられるよな!” と喋った記憶がある。


 世紀。 人間が作った時間の区切。
単に世紀の変わり目に居合わせた自分。 
車の走行メーターが10万kの変わり目 999・・・から1,000・・・に 
1桁増えて全部の数字が動き出し、同時に車も動く。


 パルテノン神殿のあるアクロポリスの丘は、その昔2000年以上も前、人々が集まって来て各々が己について語り合い相手を語り合い、相手は人から周りの物全部を含めて語り合った。 そしてそこから人の知性が始まったと物の本に書いてある。


 ここは本ではないギリシャの首都アテネ。
現実にパルテノンの石に触れられる所、彼らが実際に歩いた所、理想が実現し人々が笑った確かな所。


 3階建てのホテル屋上の部屋の窓からパルテノンを覗くと、横1m縦2m程の観音開きのガラス窓に、横一面太い帯の様になってアクロポリス全体が埋っている。 深夜は照明に照らされ、上下、黒い闇の空間に赤く浮き上がる。 赤いのは岩板が赤茶けているのだろう。 その上にパルテノンの上部、三分の一程やはり大理石が白く照らされている。


 早朝、風の強い日などベット脇の窓を開けると、さわやかな冷たい空気と共に掲げてある白地にブルーの横線の入ったギリシャ国旗のはためく音が微かに聞こえる。
 太陽はパルテノンの後ろに沈むから、見ている光景は東面なのだろう。


 ここには人面岩がある。 パルテノンを乗せてる大きな岩板。 窓の視界3分の1程占めるからかなり大きい。 少し鼻が短いが斜め上空を向き、横顔が海に向かって上壁にピッタリ引っ付いて全体が城塞に見える。
 照明により夜は一段と目が強調され眼光鋭く、空と海を睨みつけ何が何でもアクロポリスは守ると頑張ってるみたいだ。


 実際、ペルシャ・スパルタ・ローマ・トルコ・イスラムと戦って、それまで築き上げた知性の結果を踏みにじってきた。
 最後は我々の知りえる世代の人々が海と空から攻め、知性の砦とも云えるパルテノン神殿を爆薬で吹き飛ばすという愚虚を行うのだから、何とも変な気持ち。 


 何とも変な気持ちで赤い帯をあおぐ。 出来たら人面岩に聞いてみたい。 
“誰が一番ひどいですか?・・・”
なかなか答えてくれない。 それは口が重いのだから止むを得ないと思っていると、太い響きの音が伝わってきた。 
『知性は嫌われるんだ。』 
“いや、その・・・誰が一番タチが悪かったかと・・・”
『そらーお前等は空から爆弾オッコトシテキタカラナ。』  
“そうでしょ、そうでしょ。 だけど、ペルシャの戦艦がずらーっと前の海に並んだ時も、怖かったでしょ?”
『うるさい、何処っかに行け!』


 アゴラの遺跡、1200ドラクマ払って見てきた。 広い敷地のあちこちで遺跡の復旧中で、なだらかな斜面の木立の中にはシェパード系の雑種の犬の親子が居て、生後2ヵ月ほどの小犬が6匹伸び伸び育っている。 
 そう我々は、新しい世紀を迎えている。 今世紀の未来予想はどんな構想が持ち上がったのだろう。 まだ知らない。


 今から30年程前、スタンリー・キューブリック監督の映画、2001年宇宙の旅を見た。 シナリオは原作者のアーサーC・クラークが担当し、その当時のピカピカの才能がぶつかり合って出来た映画で、確かクラークは制作にも立ち合ったと記憶している。 題名の通り今年は2001年。 あの直径300m程の宇宙ステーションは残念ながら浮かんでいない。


 この映画、渋谷東急で見たが客は余り入ってなかった。 それは当時、全く新しい映像の世界だったから一般受けしなかったのだろう。 見ながらこんなカッコイイ人工物2001年に出来てるはずないよと思いつつ映像の素晴しさ、音楽、効果音に、グイグイ入り込んで見るも聞くも十分堪能したのだが、見終わって何が何だかさっぱり要領を得ない。 


 重い席を立ちつつ2階の渋谷駅に通ずるスタンドコーヒーで一時を過ごしたが、頭の中はゴチャゴチャたばこスパスパ誰かと確認の話をしたかったが、暫く人混みを見ていた。 


 しかし考えて見るとあの宇宙ステーションは、今頃何処か宇宙空間を飛んでいてもおかしくなかった。 と、時の流れを読んでアーサーC・クラークは2001年と限定したのだろう。 
 それは宇宙ステーション開発に継がるロケットが既に、1945年第二世界戦が終わった時点でドイツのフォン・ブラウンによるV2が出来ていて、これはドイツ領内からイギリスのロンドンに正確に着弾させるロケットだった。


 それからたった25年で人類は月に行って帰ってきた。
その時が1969年。 この宇宙開発の進み具合なら30年も掛ければ宇宙の旅も現実に可能だろうとクラークは考えたのであろう。 ところが文明はスムーズに流れてはくれなかった。 映画で描かれた通り、地上で破壊が始まり、人種間で猿人の如き殺し合いが行われた。 それもパルテノンのすぐ近くバルカン半島で、宗教と人種が絡み合って絶滅を計り合ってる。


 2001年3月或日。 
ソビエト宇宙ステーションミールが太平洋の何処かに落ちると云う、何か変な奇妙な巡り合わせだ。 
 ミールはアーサーC・クラークの描いた予想可能の人工物の何分の1かわからないが、落ちるならば夜がいい。 太いタイマツの如き何本も空を横切るのを人面岩と共にかみしめて眺めるのも余興かもしれぬ。 


 前世紀の未来予想は7割方実現したらしい。 その10の予想の1つに人類は動物と会話が出来るとしたらしいが、これは実現しなかった。 今世紀は是非とも可能を期待する。


 前世紀の後半50年の記憶は確かな時を通過したつもりだが、1970年頃、年配の人が時代は急速に進んでいると云っていたが、その時は時代の進行など意識もしなかった。 高速道路を100kで走り続けると速度感が薄れるのと同じ様に見えなかった。 

 
 20世紀後半の30年はコンピューターの進歩で、科学・生物・物理・芸術と云ったあらゆる科目の研究創造のテーマが、一挙に膨らみ、成果を上げた事は云うまでもない。 


 実際、日本人の身体も成長して60年代の終わり頃、10両編成の山手線に乗って多少混んでいても背伸びをすれば、最後尾の車両の壁面が見えたものだが、今は1車両でもみえない。 たかだか30年程の食生活の改善で、これほど身長が伸びるものかとびっくりする。


 同じ様に人の平均寿命も伸びて80歳は普通になった。 最近の情報では、人の身体の生命活動は環境さえ整えれば、130歳迄生きられる機能が備わっているとの事だ。 納得する気がする。


 前に日本犬を飼ったが、その頃、犬は8年位が寿命とされていた。 今は15歳の犬などざらにいる。 残飯からDOGFOODと云う事だろう。 
 すると、人間の今世紀の終り頃は平均寿命100歳と云う事か。 少し変な組立だが、大昔の人も環境さえ整えれば100歳可能とした上で、1世紀1個の頭蓋骨を横に並べれば、パルテノン迄24ー5個になる。


 30年の食生活の改善で身長は飛躍的に伸びても脳機能は全くの平行線を辿ったので、この平行線を左にずーっと過去に引いて行くとしよう。
 そう24個目、私はパルテノン神殿を作ったフェイデイアスの彫刻が見たい。 何とか会えないものだろうか。 せっかく物理的に同じ所にいる。 10cmも土を掘れば2400年前の同じ土に触れるのだが・・・。


 10年も前になるかNHKで《アインシュタイン》を放送した。 かなり力を入れて作ったのだろう、面白かった。 
 光の速度の中に入ると物の色がこう変わるとか、物が歪んで見えるとの事で関東平野がオワン状になり、東京から日光が反り返って見える様を映していた。


 詰まるところ光より速い物は無いと、こう云っていた。 とは云っても実際フェイデイアスに会う為には光より速く進む物理がなくては話が進まない。
 テレビで最新の宇宙物を見てると150億光年先の星を見せてくれる。 それから比べれば2400光年先を追っかける事などひと跨ぎではないか。


 5年も前になるか、やはりNHKで埴谷ゆたかの‘死霊’を見た。 実際に作者が作品について語っているのだが、その番組の中で彼は、
“光より速い物はある。 それは思索だ!” と、こう断言している。 何でも断言調で語る人で、こちらが本当かな?と感じる暇を与えてくれない。 次から次と断言で押してくる。


“例えば夜空の星を見て、(あの星!)と指差せば私の思いはもうあの星に行ってる。 土星と思ったら瞬時に土星に行っている。 光の速さなんて比較になりませんよ。 人間の脳から発する思索、これほど素晴しい事はありませんよ。”
と断言する。


 そら確かに人の想いは届いてるのだから人間の能力は素晴しい。 死霊の本は男女の恋愛を描いているが、恋愛と光とどう結び付けるのだろう。 彼は物の根源を熱っぽく語っているのだが、結局の所、恋愛は事初めで光は精子と卵子の結合から発するとこう断言しているのかもしれない。


 ある科学番組で卵子に精子が遭遇する瞬間を捉えた画面があった。 それは画面いっぱいに卵子が丸く映っているので、そこの所をスロービデオで何回も見た。
 精子が卵子の扉を開けたその時、卵子全体がブルンッと小刻みに震え、その後開けた扉の所から画面下に向かってさざ波が津波の様にヒタヒタっと下がっていった。


 注視したのは卵子全体が小刻みに震える所。 そこが至る所同時なのかどうか。 一見すると卵子全体が同時に震え出した様に見える。
 刺激と震えの時間差。 同じなら震えは面積全体その刺激が同時なのか、それとも入口から震えて来るのか。 静止画面にもして見たのだが、静止画像そのものの映像自体がメカニック上うまく静止してくれない。


 気になるのは命の誕生の刺激が画面一杯の円い卵子のどこから始まるのかそこを知りたいのだ。 もし仮に命の刺激が卵子全体同時に動き出したら、これはちょっと面白い。
卵子を宇宙に例えると、仮に宇宙のスペースを200億光年としよう。 その広大な領域の何処かから、何らかの事初めの刺激を受けた時、宇宙全体が同じ様にブルンッと震え感応すると云う事ではないのか。
すると光より速く生きるという意志がそこに働くと云う事になり、その後、津波がやって来て全体が浸る事になる。 これはビックバンを否定する事になるが・・・。


 そもそもビックバンとは宇宙空間の全ての物質を巨大ブラックホールに集めて、そこから爆発によって宇宙に物質を放散すると云われているが、宇宙が卵子状だとすると爆発から始まるという危険な行為をするだろうか
 埴谷氏はこうも云っていた。 文学に於いては、恋愛と光を結び付ける所が非情に難しく、ここの所をドストエフスキーはとても上手に描いているとも・・・
ビジュアル派はこんな事文学で表現できるのだろうかと思索する。 


実は罪と罰を学生の頃2ヵ月位かけて読んだ記憶があるが、埴谷氏が言う様な事は書いてなかった。 もっともあの頃の私は読書など全く縁が無く、ドストエフスキー1冊に触れたのも何かの講義の宿題・ノルマとして文字を読み終え、それ以上の何ものでもなかった。


 若い頃からの習性と云うか、文字で描く世界は信じられなかった。 でもこう云う方、好きです。 この死霊と云う本、終戦後大ベストセラーになったそうです。 読むことより直接お話してみたいですな。 埴谷先生!
 ここで頭の並びを過去に数個戻してみよう。 









駒ヶ岳山頂>  
 
 秋の紅葉深まる駒ヶ岳山頂。
昨夜の厳しい冷え込みで馬の背にあたるなだらかな起伏を残して、左右真綿の雲海に山頂がぽっかりと浮かんでいる。
 駿河湾から来る風に潮の香りはない。 
陽は朝9時を過ぎて弱い靄を通して射して来るが、冷たい風に吹かれて温もりは程遠い。
 一方の御殿場方面も雲海に遮られ、彼方の一線上の山麓の上に富士が静かに座っている。 


 空が一際青い。 赤い駒ヶ岳の下に熱海に通ずる道がうねっているのだが今は見えない。 そこを御殿場より3人を乗せた篭が登って来る。 乗り手は屈強な30がらみの男二人とかなりの老齢爺さん。 篭引き6人は息が上がらぬ様小刻みに白い息を発している。
 若手の乗り手も出来るだけ負担を掛けまいと中腰になって吊された紐を両手で握っている。 爺さんは疲労が限界を超えたのだろう仰向けに寝込んで両足をもたげている。 すねが寒いのか袴の裾を手で摘んで足袋に詰め込もうとしている。 


「見えるか。こら見えるか!」
先程から四五度、頂の茶屋の事を云ってるのだが篭引きは無視している。
視界はまだ開けないが空は明るくなってきたので爺さんは聞いている。
鼻水を拭きたいのだが両手ですねを被っているので手が足りない。
「鼻が、鼻が・・・。」
「うるさい! こう値切られて我がまま云うない!」
「国に帰る所だから乏しいんじゃ。 鼻が、あ〜 見えるかー。」
後ろの担ぎ手が故意に篭を持ち上げたものだから、爺さんの頭が押し潰されそうになった。
「ウッ! グー 鼻がー」
「花は腐るほど見れるって、もうすぐだ!」
雲がだいぶ薄れてきて黒々としてた木立が赤みを帯び出した。
山頂の茶屋では芦ノ湖に分厚く漂う雲海の雲が吹き上げられている。


 ほっぺたの赤いむっちりとした15〜6の茶屋の娘が店の前を掃き清めていると、3人を担ぐ篭が少し下り坂になる道を、エイホ! エイホ!と、軽く勢いをつけ店の前で止まった。 爺さんの篭はドシンと降ろしたものだから、
「アウーッ、痛タッタ、鼻も腰も・・・」
鼻汁が目に入った様だ。 それを見た娘はひるがえると箒を放って店に駆け込んだ。 町人風の若者二人は腰を摩りながら寄って来て、
「もっと年寄りを大事にせんか。」
「そんなこと知るかこんな裏道通されて、大事も何もあるものか。」
足を空にバタつかせてる爺さんを挟んで、担ぎて6人と口喧嘩が始まった。
店から急いで駆け寄った娘は、腹這いになっている爺さんの後頭部にサッと左手を入れ、持って来たちり紙を顔一面に被せると、
「さ!チンとして、チンと。」
爺さんはカーッと先に啖を吐き、それから娘の手に押し付ける様にチンと何度もかんだ。 娘は最後に顔全体こびり付いてる鼻汁も、そのちり紙で拭き取るものだから、
「あー、汚いよー、汚」
「もう同じだってー。」
娘は髭を丹念に拭き取っている。
「履物は何処にあるの?」
と娘が優しく聞くと爺さんは黙って頭の下を指差した。 少し厚めの敷布の下から枕にしてた雪駄を取り出すと、そのまま履かせてあげた。  それから爺さんの手を取ると自分の背に回し、爺さんの肩に手を差し入れ、
「さあ、起きて」
グイと、篭から引きずり出してやった。
「痛たた・・・腰が・・」
道中腹這いの姿勢をしてたせいで足腰は立ったが上半身は地面を向いている。 娘は元気づけも兼ねてグイッと抱き上げる様にして店へ向かったが、軽い爺さん一瞬反り返ってしまった。
「ヒー、ゆるりとな、目の前だから、ゆるりと。」
爺さんが茶店に入って行くのを見届けると、口角あわを飛ばして罵り合っていた篭引き衆と二人は舌戦中止、後に続いた。
 茶店の中は、真ん中に外に抜ける通路があって左右板の間。 そこに長いお膳が二つづつ、吹き抜けの通路の向こう10m先は馬の背の縁になっていて、少し小高い所に東屋が建っている。  縁の先は急斜面に落ち込んで芦ノ湖に至る。 雲海は下から吹き上げられて縁を越えると蒸発するのだろう、やわらかいちぎれ雲になって浮遊している。


 茶店の親父と娘が真新しい座布団を運んで爺さんの背中に積み上げている。 若手二人は地下足袋を外している。  一方の板敷きには篭引き連がワラジも取らず一列に対座している。
「どんなもん、これでいい?」
座布団の座椅子を調整している。 爺さんは深々と背もたれに身を沈めてから首に吊した財布を引っぱるが、腰のあたりで引っかかっている。  娘が爺さんの帯を持ち上げ臍の下あたりをモゾモゾ探ってやった。 
「ウヒッ!」
若手二人は寝転びながら四肢を存分に延ばし、最後はトカゲをひっくり返した様にウーンと奇声を上げながら身をよじっている。
「君達もやってみたら、気持ちいいぞ。」
「そんな犬が背中掻いてる様なこと出来るか。」
「俺達は仕事だ。」
「だまし討ちしやがって。」
「だまし討ちとは何だカゴカキ。」
「そうじゃねえか。 急に裏道来させやがって。」
「ワシ等が云ったんじゃない、この方を誰と心得る。」
「そんな事知っかー!」
爺さんおもむろに財布から金子を取り出すと、娘の手の平に乗せ握らせた。
「近う寄れ。 あんナ、お団子を3人前、こっち側3個づつむすびを3人前、籠引き衆に2個づつむすびを6人前、お団子は今ここで、にぎりは持ち出し用にナ、いいかい? 釣は要らないからネ。」
「けちなジジイ。」
「まだこれから先は長いからな。」
「クソジジイだ。」
「これじゃ、16文足りない。」
「オーオ、そうか。」
大義そうに小銭を取り出すと1・2・3と数えて、それと、これと、とつぶやいて、
「釣は要らないからネ。」
「ハーイ。」
と、娘は明るい声で調理場に向かった。
「ハーイ皆の衆。」
爺さんは両手を上げてから、左手を茶店の入口の向うにでんと備わる富士山を指さした。
「ワシはこれが見たいが為に兄さん方に無理を云ったのじゃ。」
「毎日見てるワイ。」
「それは羨ましい。 しかしナ、もう少し柔らかい顔しなさい、ここらの野犬の顔と変わらんぞ。 ワシは全国を又にかけて旅をしているのだが、ここの所考えて居るのは何かこう大きな箱の中に乗って旅をしたいのじゃ。 君達に迷惑かけたくないもんでナ。」
「牛車、馬車があるに。」
「ウン、それもよいが少し遅いのじゃ。 大きな箱の四隅に大八車を取り付けそれで移動する。 中は広いから寝てもいいし座れる椅子もある。」
「それを担ぐ変りに引かせるちゅうんか。」
篭引きが小馬鹿口調なので、御両人睨みつけてる。
「そんな事はさせん。 それがいずれ出来るとお前さん方は皆仕事がなくなる。」
「口から出任せ云うんじゃねえ。」
「どうやって引くんだ?」
爺さん首から吊したもう一方の紐を引いて懐中時計を取り出し、裏蓋をパカッと開けた。
「これは南蛮時計。 ポルトゲールから来たもんだが、この棒を回すと絡んだ歯車が縦にも横にも回転するんじゃ。 丁度水車と同じ原理だ。 だから棒の先に大八車を付ければ箱は動く。 と、おわかりかナ?」
「じゃその箱は水に浮かべるのか? 水車を付けて。」
「水に浮かべる?・・・ 考えて無かったが、・・・仕事人は違う。」
「御隠居!動かす所教えて下さい。」
「そこなんだが、やはり南蛮渡来の物でナ、ゴムと云う物があるのじゃ。 それは収縮力が強くてしかも切れない。 こんな指の太さで大きな漬物石ぶら下げても切れない。 そこで腕の太さもある物を持って来て、前の車の軸と後ろの車の軸を交互にその太いゴムを取り付けるんじゃ。 最初はテコか何かでグルグル回転させ、これ以上巻けない所で止めて前の車の歯車の付いた軸に絡ませるんじゃ。 そこで何か仕掛けを作ってゴムが反転しないよう固定しとくのじゃ。 その時人が乗る、乗り終えたら仕掛けを放せばいいのじゃ。 凄い力のゴムの反転が先ず後ろの大八車を回し箱は前に進むと云う訳じゃ。」
「そうか、そうか、わかりましたよ。 後ろのゴムの反転が終る頃は、前の大八車のゴムが目一杯巻き付いて、今度は前の大八車の反転で動く。 と、こうですね。 わかった?」
「ウーン、なんとなく半分。」
一方の相方が返事をした。


 茶店の娘が団子を御隠居と御両人に持って来、それぞれのお膳にのせた。 皿には3本アンコがたっぷりついてる。
「乗りたいなー、その箱。」
娘がキラキラ云うと、
「今度くる来る時はその箱で来るから、その時ナ。」
「本当? 嬉しー!」
と云いながら御隠居の隣に座る。 篭引きの一人は捻り鉢巻きを巻いては放してる。 他の篭引きは職業柄云うのだろう。
「爺さん、その箱の方向はどうすんだ。 右行ったり、左は?」
「御両人、青森の八甲田でソリに乗せてもらったの憶えているかい?」
「樹氷が綺麗でした。」
「何とか云った温泉、天井から湯が落ちて来る所でしょう?」
「あの時のソリが方向性自由じゃった。」
御隠居は団子を持って語り始めた。
「あの時マタギは曲がる所に向かってこんな風に棒を傾けていた。 あの要領を取り入れれば何とか成りそうな気がするのじゃ。」
籠引き連中は半信半疑で聞いている。
「出来る。 出来るって!」
と娘は甲高い声を上げた。
「これ娘、むすびは出来たのか?」
御両人がたしなめた。
「お父ーが作ってる。」
「しかも、ソリの横には棒が固定してあって、その棒を上げたり下げたりと速度調整もしていた。 止まる時もその棒じゃった。」
いつのまにか御隠居の回りに皆、円陣になっている。 篭引きの一人はワラジを脱ぐと後ろの膳の団子一本失敬している。 御隠居は団子をほおばりながら、
「箱の前の所には、方向の棒とゴム絡みの棒と箱を止める棒、これらは歯車を組み合わせれば何とかなる。 動作は御両人でやれば四つの手で可能じゃろう。」
「お爺ちゃんは何してるの?」
娘は目を輝かせてる。
「ワシは後ろの箱の中で・・・。」
「スゲー、スゲー、スゲー、」
後ろの板敷きをドタバタ走り回りスットンキョな声を張り上げた篭引きが、円陣の中に割り込み、外した捻り鉢巻をクルッとよじってばらした。
「竹とんぼだよ!箱の四隅にでっかい竹とんぼ付けりゃ空を飛ぶー。」
爺さん団子をごくっと飲んだのか、けいれんし始めた。 事態を察知した娘が起き上がるなり、爺さんの長い髭を思いっきりガーンと下に引き、同時に背中を力任せにバーンと叩いた。
 するとポロッと爺さんの口から団子が座布団の上に転がった。 混乱に乗じ爺さんの手に一玉残った団子を串ごとむしり取った篭引きがいる。
「誰だ! 俺の団子盗み食いした奴は!」 
後ろでは御両人が血相を変えて怒鳴っている。
爺さんは冷静だったのだろう。 バタッと、けいれん気味に倒れる振りして転がる団子を逃さなかった。 娘がアッと小さい声を出したが見て見ぬ振りをした。  そこに店の親父が竹の皮に包んだむすびを一人一人に配りはじめた。
「ムグ、ムグ、ムグ、皆、腹すかしてるだろうが昼はまだだー。 先は長いぞー茶を充分飲んどきー。」
「お爺ちゃん、お爺ーちゃん、それでどうするのさー。」
娘は気になっている。
「わしは、箱の後ろでー・・」
その時一瞬、店の中が明るくなった。 皆、顔を見合った後、誰となく東屋の方を見やった。 光がまだら模様
に動いていて特に東屋の天井が異様に光っている。
「なんだー?」
御両人いずれかが怒鳴ったと同時に東屋にすっ飛んで行き、次いで篭引き連中も後に続いた。 爺さんもおもむろに雪駄を履いて娘の手を借りながら茶店の外に出た。 


 白い大きな光りの束がすり鉢状の底から射してくる。 太陽の日が反射してるのだ。 雲海が底の芦ノ湖から引き始めているのだが、東屋から眺めると下界の様相は何も見えない。 途中の雲層がうごめくのに合わせて光りの束も動いてる。 時に雲に埋まるすり鉢全体が照り、時に大きな光源が直射してくる。
 太陽も立ち昇る雲の中に溶解し、白くくっきり静止している。 興味を引くのは蒸発しながら目の前に漂うたな雲の群れの所々で、親指大の太さの雲が雲の中からツンと上に伸びて50cmほどの高さになっている。 どう見てもこの棒状の雲の光景、重力に反している。 
8人の男達沈黙している。 やがて活き活きとしてきて、
「何度も雲海なんか見てるが、こんなの初めてだな。」
「ついてんだよ。」
「何だろう、あの色。」
「雲ってのはトドのつまり、雨の中なんだろう?」
「雨なんか降ってないよ湯気だよこりゃ。」
「こんなに寒くて?」
「ヤカンだろ?」
「違うよ、ものすごく寒い朝、池の表面から湯気見たいのがユラユラ立ち昇ってるあれだよ。」
「少し黙らっしゃい。 冥土の土産なんだから。」
「冥土ってこんなとこか?」
「土産だって云ってるじゃネエか。」 相方が籠引きの口を遮ると、
「御隠居ちょっと足が冷えたもんですから。」
御両人ワラジを履きに茶店に向かった。 手持ちぶさたの娘が爺さんの袖口を軽く2度引いて、
「それでどうなんさーほんとに空飛べるのー。」
「今はちょっと見させて下さい。」
哀願するかの如く小さく云った。
御両人戻って来ると、
「御隠居後ろの椅子に座りましょう。」
一間ばかり後ろの東屋の椅子に娘と一緒に座った。 下界からの光の束は益々広がり光源の辺りは銀白色の光が沸騰しているかに見える。 眩しいかと云うとそうではない皆しっかと見開いている。 つぶやく様に、
「何だろう、あの棒みたいの。」
「何だろうねー、鰻が背伸びしてるみたい。」
「不思議だ。 下から風が吹き上げるにしても、あんな棒みたいな風にならんよ。」
「火吹竹で吹き上げてるみたいだ。」
ちょうど手を延ばせば届きそうな所で又、吹き上がって来た。
「ほら、それ見てごらんよ雲を吐き出す感じだよ。」
「よく解らんが、風が細い管にはならん事だけは確かだろう。」
「土産じゃ。 皆、冥土の土産じゃ。」
娘が立ち上がって茶店の客の入を見届けて、又、座った。
「飛びてーな。 竹とんぼの箱でよ。」
先程の篭引きが云う。
「俺達さんざん人を乗せてきたんだから、今度は乗りてーよ、皆も乗れるんだろ、でかいんだから。」
「窓を付けるといいな。」
「七輪持ち込めば寒くないし。」
「布団入れて潜ってりゃいいんだよ。」 籠引き連中は勝手な事を云っている。
「爺さん本当なの?」
娘はけげんそうな顔で聞いた。
「云うんじゃなかった。」
「嘘なのねー。」
「嘘なぞ云わん。 わしは牛車の変りに・・・。 鳥みたいに・・・飛ぶなんて・・・。」
「嘘なんだ、嘘なんだ。 じゃーその鳥箱どうやって止めるのよー落っこっちゃうじゃない。」
「そうなんですよ。」
御隠居は悟ったかの如く静かに答えた。
皆黙ってしまった。 娘はシャキッと立ち上がると茶店にくるっと歩き出して、
「やっぱりお父ーの云う通りだった。」
「なんで?」
「相手にするなって、時々いるんだって。」
篭引き達はバラバラに動き出した。 ある者はもっと高台から眺めようと走りだし、ある者は反対側の富士山を見に行き、ある者は茶店に入ってかみしめる様に茶をすすっている。 爺さん寒さも忘れ鼻も止ってじっと見入っている。


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