1995年の頃の話だが、私はタイのカンチャナブリにいた。


ここは映画「戦場に架ける橋」(アレックギネス、ウィリアムホールデン、早川雪州 )
で知られた所で、
戦時中、日本軍がイギリス兵の捕虜を使って、列車の橋を作る内容なのだが、
当時、映画はTVに比べて圧倒的に迫力があり大ヒットした作品であった。


その橋を見に行った。
結構見物客も多く、観光地になっていた。
気になったのは、橋のたもとに20坪ほどの木造平屋があって、
そこには橋が出来るまでの工程を展示してあり、
一種のミュージアムになっていた。


驚くことに写真と稚拙な等身大の人形、
機関銃・ピストル等の銃器が、展示してあるのだが、
その内容は反日一辺倒に展示してある。
なんでこんな形でここにあるのだろう。
気分が滅入ってしまった。


この鉄道はバンコックから100キロ程伸びていて、
当然、橋と同時にレールも敷かれている。
利用する人も殆んどタイ人であり現地の人なのだが、
タイ人、日本人も程々に仲良く過ごしている所に、変な建物がいきなり出てくる


この映画が封切られたのは1957年頃だから、
恐らく1960年頃、この変な建物が出現したのだろう。
となると50年以上も前に、
親日国タイに相反するヤカラが、
″残虐非道日本とこの素朴な人々の中に植え付けたことになる。


それまでこの国で明らかに反旗を挙げた光景など見た事なかったから、
それだけ、違和感を覚える。


この橋の川を少し遡ると、片岸に民家が点在していて、人通りは途絶える。
更に暫く歩いて行くと、そこに長さ10m程の木造舟が10艘も係留してある。


あらかじめ遊び好きの連中から情報を得ていたので、
そこに 2〜3日逗留する事にした


舟の作りは真ん中に掘っ立て小屋があって、
セミダブルの寝台と、一応仕切りがあるトイレが備わっていた
映画では清流であったが、
今は濁った淀んだ清流が、処理してくれている。


道はどうなっているかと云うと、舟と舟との間1〜2m位に、厚い板が渡してあって、
そこを泊り客が通路として歩いて行く。


私は外側に係留してある舟を選んだが、
白人の若い3人組が様子見かねて渡って来る。ボンボン。


他に東洋人らしき30前後の男が1人この船宿に寝泊まりしていたが、
日本人だった。
彼は文学界に身を置いていて、どこかの出版社に勤めていたが、
辞めて一息ついているようである


まどろんだ川の水が、トロリトロリ過ぎていく。


午後3時頃、日本人2人が、舟の舳先から遠く北東に腕を伸ばして、
その先の日本を語っている。
結局日本は繁栄を目指し、ここまでやって来たが、
その時代と作家は、
相求め合うようにして、作品が生まれるが、
君の時代はかなリエキサイティングなのだが、
そこに当然、必然的に作家が登場する筈だが、
それは誰で、作品は何なんだろう?


いささか固い口調から入ったが、
彼は口籠り、「誰だろう・・・誰なんだろう・・・」
瞬時に個人名が出ないのは、有望な作家が出て来なかったのだろう。


つまらない、何にもない、何かある、本当ーにつまらないよ。
何故なのだ。
バブルバブルと日本全土が沸騰していたが、
アレって、何かゆで卵みたいなもの出てきたかな・・・
俺、彫刻やっているんだが、
上野の浅草寺に行くと、近くのビルの上に大きな造形が乗ってるんだ。
金色に輝いていてチョット見、恐竜のウンコみたいで面白いんだ。


文学の世界は知らないが、芥川賞・直木賞、選考に当たって情実はあるの?
少しの間を置いて、「それはないと思う。」真剣な顔つきで答えた。
影山民夫の賞物を読んだがツマンなかったナー。


美術界はメタメタ情実の世界。
ブラック、オール、オールド、ブラック、だ。
ドンよりと音もなく、濁った静かな渇流がかすかな下流に移動している。


こんな話を途切れっぽく語り合ったのち、
ほどなくして日本に帰ったら評論家の堺屋太一が、
テレビの世相コーナーで、こう語ったので、思わず振り向いてしまった。


『最近日本では、ツマラナイと云う言葉が流行っていますが、ナニナニ!!』
と続いた。このセリフだけ憶えているのは、ナニナニの中身が無かったからである。


いずれにしてもこの当時、
目覚ましく発展している日本を、リアルタイムで見つめながら、
この勢い、躍進なら、世界中からアーティストが集まってくるぞと、
期待していた。


それは第一次世界大戦後、
いち早く復興した欧州のパリに、才覚豊かな芸術家が集まったように。
又、1960年代からのアメリカの繁栄のもとにNYのソーホーに、
アンディウォーホール等、集っていた。


そして、さーこれから日本だ東京と胸を躍らせていながら、
私も新しいフォルムを探っていた。
そして20年見渡すと、誰も来なかった。
かつてパリで羽ばたいた、藤田嗣治の様な人は、
一人も現れなかった。


何事にも生半可な事ばかりが目に付いて、
面白い事など何もなかった。
だがひる返って20年いや30・・・
それは何ですか、と問う。


この日本をだれが動かしているかは、知らない。
しかし、あなたは先の日本を誰よりも知っている人として、
戦後の日本を真中から覗いてきた数少ない文化人だ。


今世紀、2018年も終わりの今、
今こそ、堺屋氏は語るべきなのだが・・・




  エート サカイヤ サン ゾンメイダヨナー




  「大丈夫 大丈夫だ 心配無い」


 ゾンメイナンダナー カクニン トッタカー




  “又、又、私の身体の中の警戒警報が鳴り続いている”
 グアー グアー ブトン  グアーガーガー
 この音が激しく胸板を突いてくる。
 ブトン ブトン  


最初の頃は音も小さく、昭和40年代迄聞けた、
パトカー・消防車の警戒音 ウー ウ〜ウー
この音が聞こえ始めたのが、1990年代の半ば頃である。


それはその頃、私は東南アジアに出かけていたが、
その行く先々の国で、ビザを申請取得するのが面倒だった。
その内、近隣諸国のタイ・ラオス・カンボジア・ベトナム・マレーシア・インドネシア等の間で、短期ならビザを撤退しようという気運が高まり、実行していった。


その間私は、各国旅行代理店で、ビザの有無の話になると、
日本は遅れているのヨ と、涼しい顔された。


そして1996〜7年頃、日本も近隣諸国ならと短期ビザ無用
が始まろうとしていた。
と同時に、ウーウーウーとサイレンが鳴り始めた年代でもある。
それを如実に感じる事があった。


私は夏の盛りを、伊豆の堂ヶ島で過ごしていた。
近くに、21世紀の森と名乗る保有地が山の頂にあった。
そこは昼夜ほとんど人が来ない所で、野生の鹿、猪を毎日見るような所であった。


夜はそこに小さなキャンピングカーを運び、寝倉としていた。
その日は、海で遊んでぐっすり寝込んでいると、夜12時ごろ車が1台やってきて、
200坪くらいの展望台広場を、ヘッドライトが1周すると、真中で止まった。


すぐさま若い男が3人出て来ると、中国語で怒鳴り合いが始まった。
私の車一台認識しているのに、全くお構いなし。


聞いてると、互いに話している途中に相手の言葉が重なるから、一向に納まらない。
互いに聞く耳を持たぬ連中の会話はやかましいだけで、騒々しい。
しまいに何か物を取り合いしていて、殺気立ってきたが、
急に話がまとまったのか、車ごと消えて、又、静かになった。


こんな光景を目撃すると、あーぁ、もうこんな気ままな遊び物騒で出来ないなと、
以降2000年から5年間車遊びはやめてしまった。




  デ、ドウシタ カンケイナイヨ




そう、関係ないのだが、当時1990年代の初め頃から、
日本の全国で大きな屋敷が、泥棒に合い、被害に合っていた。
同時に中国の福建省にある片田舎の村では豪華な家が立ち並ぶ。
泥棒屋敷通り空き巣御殿通りが出現したのである。


この現状現実をメディアは、殆ど無視、見て見ぬふりをしていた。
ウーウーウー消防車 ウーウーウーパトカーは行く
どことなく寂しげに ウーウーウーの響き


そして、それから20年も経って、警戒音はものものしい
 グアー グアー ブトン  グアーガーガーにとって変わった。


この音質は、アメリカに行った時聞いた、都市を走る消防車の発する警戒音で、
真に迫力を伴う。
そしてここの所、事ある度に身体の中を 
ブトンーブトーンと駆け巡る。 ガーガーガー 


この大きな警戒警報は,2018.12.26に全世界に鳴り響きわたり、
発信源のトランプのカウボーイが、ジョンウエイン宜しくホワイトハウスを、
腰に二丁拳銃を掲げて闊歩している。


この1〜2年優秀なスタッフが、射的場の的の様に消えている。
2日前には世界で一番頑丈な高か〜い見張り台にいるマティス国防長官が、
退場となった。




 アノー ゲリシテッペッペ ガ イイヨ


 誰なんだ下痢してぺっぺって。


 フルイ エイガファン ナラ シッテルヨ




今、中国がアメリカとやり合っている。
中国は身の丈の間尺が合わないのに、
アフリカ・亜細亜・太平洋・南米・ヨーロッパと唐草模様を広げている。
案の定、足・腰に負担が掛かり、突風が吹いて来たら、一気に持ってかれそうだ。




 カンタンダー アメリカ ハズセッテ
           フトッチョガ セイリュウトウ フリマワシテ
            カテッコナイヨ




日本国総理大臣安倍晋三の視界が、地面すれすれに旋回している。
超高層ビル群、日産・三菱・東芝・シャープ、本社ビルがつむじ風により、
屋上が少し揺れてるらしい。
それは建物支える真棒が固い岩盤に刺さっていないとも聞いたが、
更に免震ゴムが、規格外とも聞いたが、定かでない。


ここで視界設定を俯瞰にし、高くタカーク高緯度に迄移動しよう イプシロンの到達点まで。


日本では、かつて外国人労働受け入れに成功した例がある。
1980年〜90年代にかけて、
イラン人があらゆる現場で働いていて、人数も数万人規模になっていた。
雇い主は大企業から零細企業まで、全国でイラン人を見る事が出来た。


今、日本は外国人労働者を合法的に受け入れるらしい。
中国・韓国をはじめ、東南アジアから大量に雇うという。
もう決定したのか知らないが、2018年の暮れの現在ちょっと待ってと云いたい。
まだ21世紀に入ってたったの18年である。


全国の政治家の皆さんに語るのだが、
市町村から選ばれた人は、お金だけ持ってまず海外視察に出かける。
行き先はヨーロッパ・北米を外して、ぐるりと一周がよろしい。
宿泊代は、日本円にして5000円程にする。
するとどこの国に行っても、大衆の住む真っただ中に身を置くことになる。


そこでは、窓・ベランダ・バルコニー等には、
パイプ、鉄条網、アラーム他、あらゆる防備に守られている。
またそこが一家屋だと、塀の上に尖ったガラスを刺し並べて、他人の侵入を防いでいる。


居心地が良いかどうかは別にして、
いわば各家が檻の中で生活している実態を、目撃する事が出来る。


こういった体験は星がついたホテルではまず味わえない。
ですから市町村に帰国する時、
我が町・我が村・我が都との現況認識を重ね合わせる事がまず、
マズは必要ではないかと、まずい話をしているのであります。


 ムカシ ソノムカシ ムボウビトシ ト イウナノ 
 イタリアエイガ ガ アッタナー ト キオクスル


解った、わかったヨ、ゲリシテペッペって、ゲーリークーパーだな


 ナーニー ゲリシテ ゲーリークーパー?
 ワタシワネ、ソノテノダジャレワ イワナイ
 グレゴリーペック ダヨ



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2019.1.19